2016年4月18日月曜日

自閉症に必要な「合理的配慮」とは

はっきり言って、自閉症は「自閉症VS定型発達」の問題。
自閉症の「環境障壁」とは「定型発達が多い」という事。

だから「自閉症のネットワーク(社会)を作れば良い」と思う。
それが社会モデルの支援の一つ。
しかし、いきなりこんな説明をしても理解されない…。

自閉症に必要な「合理的配慮」とは、
第一に「理解できない人から距離を取らせる事」
第二に「理解できる人との関係を構築させる事」

運よく「第一、第二」の合理的配慮が満たされた自閉症当事者は、
障害者の診断を受けずに自立した人生を歩める。
(定型発達とフェアな条件だから)

自閉症における医療福祉の役割は2つ。
一つは「当事者を治す」で、これはナンセンスだった。
二つは「二次障害を治す」で、これは有意義だが、
自閉症の本質的な解決には至らない。
以上をもって医療福祉の役割は限界を迎えた。

あと医学に残されるのは「自閉症の解明」
気長に待つしかない。今後、支援を担うのは事業者だと思う。
それも、医療福祉とは専門外の
「実社会を歩んできた人達」の方が期待できる。
結局、当事者が住む世界は「実社会」だから…。

大抵の支援者は、
自閉症は「何となく困難がある」と考えてるだけで、
「何が困難か?」が全然解っていない。その結果、
「障害者扱いする割に、適切な支援が全く出来ない」
という最悪の対応になる。

自閉症を理解する、3つの条件

発達障害を理解できないと、発達障害に必要な支援が解らない。

定型発達が自閉症を理解するために3つの過程。
1.当事者に合う (なるべく多く、老若男女・重度軽度含め、全部)
2.積極的に関心と疑問を持つ (投げ出さない、受け入れ過ぎない)
3.正しい説明 (最後にこれ ※医療福祉より一部の事業者を推す)

ちなみに自分が推す「一部の事業者」とは、
「カイエン、ペガサス、アイム」の代表の方。
しかし先ずは1と2の条件をクリアしないと難しい。

福祉医療からの説明は、あまり勧めない。
医学的に自閉症は謎のままで、見解がコロコロ変わってきた。
むしろ、専門外からの事業者の方が
実践的な視点から、本質を捉えている気がする。
「社会モデル」支援についての理解も進んでいる。

2016年3月9日水曜日

当事者を支援者に

今後、発達障害の支援に必要とされるのは、
「発達障害の当事者を、支援者にする試み」であると思います。
定型発達の支援者では、定型発達の範囲内でしか支援が出来ません。
定型発達は、良くも悪くも
「定型発達しか育てられない」のではないでしょうか?
同じ発達障害同士であれば、
近い特性の方から「苦手分野も得意分野も」学ぶ事ができ、
アプローチの仕方も当事者視点に即した形になります。
「発達障害の事は、発達障害に任せてみる」事が
将来的には必要になってくるのではないかと思います。

2016年3月7日月曜日

支援者が 「得意分野」より「苦手分野」を支援する理由 2

支援者は発達障害の「得意を活かす支援」より
「苦手を埋める支援」の方が管理しやすい。
何故なら、支援者は
責任能力の限界を超えた支援は出来ないからです。
という事は、何を意味するかというと
「発達障害の能力を活かす支援」は
「支援者の能力の限界」に左右されます。
例えば「会話は苦手だが、音楽の才能がある」
当事者がいるとします。
しかし支援者がプロ級の音楽家でもない限り、
その当事者の「得意を活かす支援」は出来ないわけです。
しかし仮に支援者が、
プロから音楽を学べる機会を用意したとしても、
そこで当事者が「会話が苦手」などの特性により
何かトラブルが起きた際、支援者の責任は重くなります。
であれば、支援者は「会話は苦手」という特性への
支援の方が、支援者の能力的にも、責任的にも
リスク管理しやすい訳です。
しかし苦手分野ばかりの支援では、
当事者は満たされませんし、
(苦手分野ばかりやると)失敗体験も増えるので、
自己否定的になり、結果として
全体的に能力低下という事態が考えられます。
これが発達障害の支援の難しさです。

2016年3月6日日曜日

支援者が 「得意分野」より「苦手分野」を支援する理由

発達障害は二面性があります。それは知能検査にも表れます。
例えば、知的障害は総合IQが70以下となりますが、
発達障害は70以上、つまり平均内以上の結果となります。
では「何が普通の人と違うのか」と言えば、
総合IQではなく、各項目の成績の落差です。
発達障害の場合、
「得意分野は常人以上、苦手分野は常人以下」となり、
「成績を総合すると平均内以上に収まる」という事です。
そして支援の場では「苦手分野」に焦点にあて、
「得意分野」は置き去りとなる傾向があります。
それは何故か?自分が思うに、
「支援者の能力の問題」と、それに準ずる
「支援者の責任の問題」の二つがあると考えられます。
(能力がなければ、責任が負えない)
順に説明していきます。
先ず能力向上のためには「失敗のリスク」は避けては通れません。
誰もが「失敗をしながら」ステップアップしていきます。
支援者は「失敗しても安全な場」を用意し、
失敗によるリスクを抑えて能力向上を促します。
そして、支援者がリスク管理しやすいのは
「得意分野」より「苦手分野」の方です(ココ重要)
理由として、
・「苦手分野」であれば支援者が「教えられる立場」である事
・「苦手分野」の失敗であれば、周囲の理解が得られやすい事
そして逆に「得意分野」を育てるためには
「その分野のエキスパートが必要」になります。
もし支援者にエキスパートがいなければ、
「外部のエキスパートの方にお願いする」という事です。
これは支援者にとって大きな責任、大きな投資になります。
また、支援者の方は
「当事者の得意分野を見極める力」が必要になります。
(そうでないと投資が失敗した際の責任が取れません)
支援者としては「ハードルが高過ぎる」という事です。
以上が「当事者の得意を活かす支援」より
「当事者の苦手を埋める支援」が優先される理由と考えられます。

2014年10月14日火曜日

発達障害の悩みに支援者が真剣に応えてくれた結果

発達障害の深刻な悩みを相談し、支援者が真剣に応えてくれた結果、
凄く常識的な回答が返ってきた。
しかしそれは「定型発達のためのベストアンサー」だった。
(つまり非定型にとってはベストではないアンサー)

…しかし考えてみれば当然の話で、
定型の人が真剣に考えた定型の解答になる。
実は俗に言う一般論や、良識的にベストな解決方法は、
「定型発達のための解決方法」だと気付かされた。
自分は今までその定型の模範解答を「実践」して
「失敗」し、状況を「悪化」させてきた過去がある。

例えば、「きちんと相手に説明し、解ってもらうよう努める事」。
これは一般的に「良いアドバイス」なのだが、発達障害に任せるのは危険だ。
いくら本人が真剣でも、それが逆効果となるリスクがある。

例えば、日本特有の説得方法に「誠意を示す」というのがある。
しかし非定型がいくら「誠意のつもり」で尽くしても、
定型には「全く通じない」どころか「逆鱗に触れる」事さえある。

そもそも非定型(発達障害)は「常識」の外側にいる存在である。
定型とは前提条件が違うので常識的な解決方法は必ずしも通用しない。
同じアンサーでも「定型には正論」「非定型には暴論」という事もある。

発達障害の場合、拗れてしまった問題に当事者として
「関わらない、逃げる、任せる」という非公式・反則手段が一番ベターな場合がある。
残念ながら当事者が頑張ると余計状況を悪化させるのが発達障害だ。
一番苦しむのは当事者だが。
人と人との折り合いをつける問題は、本当は定型の人に任せた方がベター。
非定型にベストな解決法はない。当事者に定型のルールは理解が困難である。
時に発達障害は、正攻法で助からない事がある。
それは当然かもしれない。社会は元々「発達障害を想定していない」故。

2013年1月25日金曜日

非定型当事者に任せれば良い


定型発達は「この世に非定型発達はいない」と思っているし、
ずっと勘違いしたままでいたいのが本音だと思う。

考える機会があっても理解したくはないと思う。
今まで「これが正しい」と思ってた考え方が通用しないケースを
想定しなければならない面倒臭さは半端ないと思う。
しかも定型発達側へのメリットがあまりアピール出来る事がない。

非定型発達者が迎合して定型発達者のフリをすると、
バレない間は定型発達者はすぐ受け入れる。
やはり本当の事に気付くよりも、楽な勘違いしていたいのが人間か。

しかし非定型発達者が定型発達者のフリをするとストレスが溜まる。
言わば「左利きなのに右手で作業するようなもの」だから。

「非定型発達者に定型発達者のルールを押し付けて誰得なのか?」と思うのだが、
それが何故上手くいかないのか、定型社会は把握出来ていない。
社会のルールは「非定型発達者」という存在を端から想定していない。

とは言え定型発達者が発達障害を理解するのは難しい。
もっと負担が少なく効率的なやり方がある。
非定型当事者に任せれば良いという事。
簡単な物理的援助だけで済む。後はこっちで何とかする。

定型発達社会に
非定型発達が居る事自体が「誰得状態」に他ならない。

定型発達者にとっては厄介な不安要素だし、
非定型発達者にとっては地獄のような罰ゲームだ。

適材適所を生み出せばwin-winな結果を出せる。
でもそれが出来ないのは、
定型発達者は非定型当事者を理解しないから。
当事者は障害者だと思い込み過ぎて無気力になっているから。