2012年12月30日日曜日

多数派優位の合理性


市場原理が社会を形成しているように、
効率化の名の下に、多数派は便利に・少数派は不便になる。
この社会は多数派が優先される。

多数派は「場」を限定する限り必ず表れる。
多数派は優先され、その場の居心地を獲得する。
しかし「場」の限定の仕方次第で、少数派も多数派に変わり得る。
例えば日本という国では「日本語が多数派」であるが、
海外へ出れば少数派という事である。
つまり「多数派、少数派」は相対的存在であり、絶対的ではない。

多数派・少数派の力関係は原則として崩れない。
しかし「特定の場」を少数派で埋めれば、少数派は多数派に変わる。
(例:左利きだけの部屋を作れば、その部屋は左利きが多数派となる)

発達障害も少数派である。

だから、発達障害だけの空間・社会を作れば、
発達障害こそが多数派となり新たなルールが作られる。
その中で当事者は「生きやすさ」を手に入れる可能性がある。
その試みに、自分は希望を感じている。

2012年11月22日木曜日

発達障害への支援について

発達障害をどう理解して、どう支援していけばいいか?について。

まず発達障害ではない人を定型発達と呼びます。
なので発達障害は、非定型発達者と呼ぶ事もできます。

定型発達者と非定型発達者という考え方。
これは脳の発達の仕方に多数派と少数派がいるという事です。

例えば十人に一人の割合で少数派の左利きがいるように、
十人に一人の割合で非定型発達者がいると考えれば分かり易いと思います。

発達障害も要は脳の発達における少数派に過ぎないのではないか?と考えます。

もし発達障害が治せるとしても、
「治したいか?」と問われれば、治したいとは思いません。
自分自身に不都合を感じる事はないからです。
不都合を感じるのは人間関係であり、
自分と社会との間に発生する「通じ合えない」という障壁です。

「まさにそれこそ自身の障害ではないか」と思われるかもしれませんが、
この問題は、右利きと左利きが握手をするような話だと思います。
握手が上手くいかないからと言って、左利きが一方的に悪いとは言えません。

非定型発達の考え方は少数派ですが、「間違い」ではありません。
考え方が定型発達とは「違う」だけです。

ところが社会は定型発達の考え方が前提で設計されます。
非定型発達という人達が存在している事は想定していません。

社会は非定型発達の在り方を障害と見做して、定型発達へ矯正しようとします。
そこで初めて、当事者は生辛さの壁に当たり「障害者」になるわけです。

これも左利きの矯正を想像してもらえば解ると思いますが、
無理な矯正は二次障害をもたらします。

「非定型を定型に矯正しようとするから不都合が生じる」

そう考えてみると発達障害の問題は意外と単純ではないでしょうか?
社会はこの問題に対して複雑な理解を要求されているのではなく、
極当然の結果として受け止めればいいと思います。

ではこれから発達障害の当事者をどのように支援をしていけばいいか?
社会に理解を呼びかける事も必要だと思いますが、
「理解できない人とは、距離を取る必要がある」と考えています。

非定型発達が中心の社会を作るべきだと思います。
「社会とは何か?」と考えた時、結局は「人の集まり」ですから、
非定型の当事者同士を繋いでいけば社会は作れます。

そうすることで当事者が最も力を発揮できる環境が自然と作られます。
そのための場所、インフラの確保が最大の支援になると考えます。

2012年10月10日水曜日

非定型が発達するには

発達障害とは、「定型発達ではない、非定型発達」の事です。
人間には定型と非定型の2パターンがあると考えてください。

それは丁度、利き手には右利きと左利きがあるように、
脳の発達に、多数派と少数派がいると言う事です。
社会が右利き優先で設計されているように、
この社会のあらゆる制度、構造は「定型優先」に設計されています。

そして非定型は、非定型なのに、
定型のように振る舞い生活しなければないらない事を強制されます。

例えて言えば、左利きなのに右利きを強制され、
「何故他の人(右利き)のように上手く出来ないんだ?」と責められる扱いです。
そのような理不尽な話が、発達障害において繰り返されているわけです。

非定型が非定型として発達できない環境に放置されている。
だから「発達障害」なのだと自分は考えています。

左利きの方に「左手を使うな、全て右手で行え」と強制したら
本来の力を発揮できないばかりか、能力が平均以下となり障害者となる。
言わば、それが発達障害の問題です。

誰もが自分の利き手で作業したいように、
非定型は非定型のやり方で、発達したいと思うでしょう。

2012年7月22日日曜日

非定型発達者

以下、とあるツイッターでのやり取り


「発達障害的な認知特性や、ある程度以上の能力の凸凹を持つ人」で、
社会に適応できている大人や子供を発達障害とするのか否かは
意見・解釈が分かれるだろうね。
IT企業に勤めるプログラマーとかはその代表格。

特性を持つ人の総称と、障害とで分ければいいと思います。
単純に言うと、発達障害者ではなく「非定型発達者」と呼ぶ。
障害があれば「発達障害」とする。

非定型発達者とは:
発達障害と似通った要素があるけれど、
困難を抱えてはいないため発達障害ではない人(と定義する)
この言葉を普及させたい。

非定型発達者って、すごくいいとらえ方ですね。 
急進的になりすぎず、ゆっくりと広めていきたい。 
成人の発達障害と認定されている人も、
社会に適応できれば非定型発達者になるのかもしれない。 
それと共に、辛い思いをしている当事者仲間の事を決して忘れてはいけない。

ギフテッドと呼ぶより、非定型発達者の方が落としどころとしては無難だと思います。

1つ付け加えますと、非定型発達という言葉は前からありました。 
一般人を定型と呼び、当事者を非定型と呼ぶのは定番です。 

ただ、社会に通用しているように見える
(実際通用してもいる)発達凸凹の人たちを、非定型と呼ぶ事はあまり無かったです。 
たまにそういうつぶやきもあったけど、反応する人はいなかったし、私もピンと来なかった。

プログラマーに関してその言葉が出て、おおこれだ!となりました 
今回注目した人たちに関して、
私は今まで「隠れ発達障害」「発達障害ぎみ」という言葉を使っていました。
でも、それらの言葉にはいろんな意味で限界があったんです。
非定型という言葉なら、社会に通用している人にも受け入れられるかもしれない。
その点で非常に画期的だと思います。

2012年7月14日土曜日

我拒む、故に我あり


人は覚えるではなく、忘れる事で技術を獲得するらしい
形とか体系とか論理は削ることで成り立つ 
目的に即して完璧ならば、目的の外では無能となる
形は形以外を否定するから形足り得る